一児の母になった私が今自分の親に対して思うこと③
母は退院して、すぐにお弁当屋さんのパートを辞めて、新しいパートの面接に行きました。
本当はまだまだゆっくり休みたかっただろうけど、ガリガリの体ですぐに動き始めた母を私は凄いと思ったと同時にもっとゆっくり休んでほしいとも思いました。
この時医療保険に入ってなかったらしく、入院費をどうやって払ったのかは分かりませんが、きっとお婆ちゃんか誰かに借りたのだろうと思います。
そして母が退院してすぐに近くのデパートに一緒に買い物に行ったのを覚えています。
お見舞いにきてくれた人達にお礼を買いに行き、お金がないのに私に洋服を買ってくれました。
何かを買ってもらうことなど殆どなかったので凄く嬉しくてとても気に入っていて大切に着ました。
それから今までお手伝いしても褒められることもなかった私ですが、洗濯物を畳んだだけで、皿を洗っただけで、「ありがとう。助かるよ。」って褒めて貰えて嬉しかったのを覚えています。
母はすぐに新しく面接したパート先が受かってまた働くことになりました。
そこの店長や従業員達はみんなとても良い人達で、母が肺腺癌になるまでずっと15年間も働き続けました。
もともと誰とでも気さくに仲良くなれる母はそのパート先で働いてからとても楽しそうでした。
母はもう元の陽気ですぐ笑いすぐ怒りすぐ泣く元気で明るい人に戻りました。
私が思春期だったのもあるし、母も子どもっぽい所があったので喧嘩を沢山しましたが、
もう「家は帰りたくない居心地の悪い場所」ではなくなりました。
母とは親子であり、親友のような関係になれました。
相変わらず父は働いてもすぐ辞めてを繰り返していましたが、母の表情が穏やかでいるだけで私は心が救われていました。
でも父は新聞配達だけはずっと続けていて今もやっています。(新聞配達だけの給料ではとても生活できませんでした)
新聞配達は私達子どもが寝ていた時間で、起きている時間に働いている姿をあまり見なかった私は「お母さんばかり働かせて自分だけ楽して最低だ、こんな人と結婚したお母さんは可愛相」などと心のどこかで決めつけていたと思います。
だけど、今思えば父は精神病で大変な時に自分ができる精一杯のことをしていてくれたんだな。とも感じます。
現に精神が不安定じゃないときは明るくてよく会話もあり、陽気で優しくしてくれました。
暴れたりお兄ちゃんをボコボコに殴ったり、母のこともたまに殴ったりしてる時もあった父だけど、そこだけを見るととても最低だと思うし、どんな理由があったとしても自分の感情で人を殴るのは決してやってはいけないことだと思います。しかし、父はいい所も沢山あって、父が家族を思いやっている姿も沢山ありました。
父の育った環境も少し複雑な家庭で、父は自分が親になってからの家族の守り方や大変なときの自分の気持ちの保ち方がただ、分からなかったのだと思います。
私も一児の子を持つ母になって、「子どもの為にこうしてあげたい。」とか「子どもの笑った顔をずっとみていたい。」とすごく思っていたとしても自分がいっぱいいっぱいで出来ないことも沢山あることが分かりました。
どんなに子どもが可愛くてどんなに愛していても子どもの期待に全て答えられる訳でもないし、子どもの感情に全て向き合える訳でもありませんでした。
まず自分の感情と向き合わないと子供の感情にも向き合えない、穏やかでいられないことの方が多いと感じました。
私は全てを「〜されたから愛されていない。〜と言われたから私は価値がない存在なのだ。普通だったら親は子供に〜するべき。」と決め付けていた事が沢山あったのだなと感じます。
記憶の中で嫌だった事、愛されていないと感じた事、辛かった事、それだけを心いっぱいに支配して決めつけて、それだけを見て苦しんでいたのだなと思いました。
その人の立場にならないと分からないことも沢山あります。
親には親の感じ方があり、子どもには子どもの感じ方があります。
血の繋がった親子だとしても、同じ屋根の下に一緒に生活していたとしても一人一人の考え方は違うんです。
自分の中の普通が他の人にとって普通であるとは限らないし、他の人の普通が自分にとっての普通でもあるとは限りません。
それに、自分が子どもに「こうしてあげるべき」と思うことは本当に子どもが求めてることなのかも分かりません。
母はまだ宗教にも辞めることなく入っていましたが、私に強制的に参加させることはなくなりました。ただ、行かない時はたまに寂しい顔をしたりしたのは覚えています笑
中3の時は私が受験生になったのもあり、冬季講習に行かせてくれたり、その送り迎えもしてくれたりしました。
冬季講習にお金をかけて行ったのにも関わらず私は成績が上がらず、第一志望の高校に落ちました。
合格者発表を見に行った時、お金をかけてくれたのに、協力してもらったのに合格できなくて母に申し訳ない気持ちと、「母をがっかりさせてしまった、すべり止めですでに合格していた市立はお金がかかる、どうしよう…」ってすごく落ち込みました。
でも母は最初私と一緒に落ち込んでいたけど、すぐ切り替えて、「ケータイ買いにいくか!」と明るく私をケータイショップに連れて行ってくれました。
そして「市立の高校で自分が楽しくやれるように頑張りな」って励ましてくれました。
私が母になった今、専業主婦で子どもは保育園の待機児童なのでパートもできなくて、旦那さんの稼ぎだけで生活しています。
旦那さんは人並みに稼いでくれてるので、なんとか生活もできてるし、家も車もあってそれなりに自由な暮らしができてます。
それでも支払いが多いときとか、貯金を崩さないといけない時もあると、不安と焦りが出てきます。私の旦那さんはとても頼りになる人で思いやりと愛情が深い人です。それでも不安になる時はあります。
だからすぐに切り替えて明るくしてくれた母は凄いなと思いました。
何十万もする入学金も高い制服代も教材費も授業料も全て私が卒業するまで払ってくれました。
それなのに私は学校をよくサボり何回も先生に母は呼び出されていました。
でも母は「単位無くなる前にはちゃんと授業出なよ。」とだけ言って私を怒ることはありませんでした。
母がよく言っていて今も印象に残っている言葉があります。
それは「この世で平等なものって時間だとお母さんは思う。その時間をどう過ごすかは一人一人自由だし、やらなきゃいけない事に追われている人も沢山いて気持ちに余裕がないときとか落ち込むことも沢山あると思うけど、どうせなら楽しく時間を過ごしていきたいよね。自分の考え方で楽しくなれる時間が少しでもできるなら、お母さんは楽しく考えたい。暖かい気持ちで時間を過ごしたい。」そう言っていました。
母の生き方を教えて貰っていました。
親だから当たり前じゃないんです。
もし、私が母の立場だったら、ここまでできるか正直分かりません。
ブログを書いていて、私はちゃんと想われていたんだと、改めて気づかされました。
母を可哀想と母は不幸だなどと思っていたのもそれは私の決め付けであり、思い込みでした。
母はしっかり自分の人生を生きていました。
父や母に対してこう思えるようになったのは
摂食障害になって自分の考え方や捉え方を見直すきっかけができたことは大きいなって思います。
摂食障害になったときは絶望的だったし、こうなったのも全部父と母のせいだ。と親のせいにした時もあったけど、誰のせいでもありませんでした。かと言って自分のせいだとも思いませんし、今まであった出来事は全て意味があったのだと思います。
摂食障害にならなければ後にこんなに満たされる考え方をすることなどできなかっただろうなとも思います。
全て誰かのせいや自分のせいにして苦しい考え方をして、それでも気持ちに蓋をして明るくいなければと自分を苦しめていただろうと思います。
蓋を外して一つ一つの感情に寄り添い、受け入れられたからこその今の気持ちです。
まとまりなくて読みづらくて申し訳ないですがまだ続きます。笑