nHappyもう辛いダイエットの時代は終わり!摂食障害は治せる✨

辛かった本当に辛かった摂食障害が治った。 摂食障害が治ってゆるーく生きられるお手伝いをします✨😊 

他人から見て私は善しとされるのか?ではなくて自分から見て私は幸せか?

旦那さんとは付き合って3ヶ月で妊娠して結婚しました。
旦那さんは付き合っていた時から今も変わらずとっても優しくて思いやりがあり、摂食障害の私を受け入れてくれました。
この時はまだ摂食障害を治している途中だったのと、感情に蓋する癖をやめる練習の様な期間だったので、今まで我慢していた感情が溢れ出し、自分の感情の処理の仕方が分からず、私はとても情緒不安定でした。
そんな時に妊娠して、ホルモンバランスの関係もあって更に情緒不安定になり、沢山沢山旦那さんに当たってしまっていました。
それでも旦那さんはいつも優しく私を受け入れてくれました。

この時私は派遣先の工場で日勤と夜勤の二交代で働いていたのですが、つわりが始まり、夜勤は殆ど出勤出来ない状態が続いて、辞めてしまいました。

そんな中一人暮らしをしていたアパートを引き払い、旦那さんと暮らし始め、次々と変わる生活、そして食べつわりだったのでどんどん太っていく体型の恐怖、これからの出産と初めての育児の不安とで気持ちがついて行きませんでした。

高校生のころからバイトを掛け持ちしたりなどずっと働いていて、自分で働いて稼ぐ事で自分自身がちゃんとしているという肯定を出来ていたこともあったので、仕事を辞めて、家にずっといる生活がダメ人間になったような気がして落ち込んでいたのを覚えています。

そして仕事を辞めて旦那さんの帰りを待つ生活になりました。
旦那さんの仕事は長距離トラックの運転手で殆ど家にいなかったのでとても寂しく過食で寂しさを埋めるようになった時もありました。
妊娠前からタバコを一日最低でも一箱吸っていて妊娠が分かってからも暫くはタバコを辞めることが出来ませんでした。
お腹の赤ちゃんよりも、タバコを止める事で口が寂しくなり食欲が増してこれ以上太ることは絶対に嫌だと強く思っていました。
しかし、切迫流産の診断が出て、この時初めてタバコをやめる事が出来ました。
恥ずかしながらお腹の赤ちゃんを守れるのは自分しかいないとこの時にやっと気付く事が出来ました。
まだまだ摂食障害があった時期だったので、変わっていく体型が受け入れられず、友達に会ったら太ったなと思われるのも怖くて、友達と気楽に会う事もできませんでした。
ただ、1人の親友とは定期的に会っていました。

普段の話し相手は旦那さん、毎週会いにきてくれる母だけでした。

旦那さんの性格はとても温厚で喜怒哀楽があまり激しくなく無口な方で、私の性格と正反対でした。
旦那さんと出会う前まで付き合ってきた人達はテンションが高めで話すのが好きで聞き上手な人達が多くて、私の育った環境にいた家族もお喋り好きで、色々大変な事があった以外は明るく笑いが溢れていた家庭だったように思います。
そんな感じだったので、旦那さんが無口であまり会話がない事がとても寂しく感じられ、私が話しかけても話しが弾まず、リアクションが薄くて、なんだかスナックで働いていた時のお客さんと会話してるような、段々と接客しているような気分になっていました。笑

旦那さんは無口だけどとても愛情深く私を受け入れてくれて、自分の芯をしっかり持っている人です。真面目に働いてお金もしっかり稼いでくれて、私を色んな場所に連れて行ってくれます。そして家事も積極的にやってくれます。それなのに、私はなんでこんなに満たされないんだろう?
旦那さんがもっと私と会話してくれれば、
旦那さんがもっと明るくて私を笑わせてくれれば、、私が体型の変化を受け入れられて友達に沢山会いにいければ、、母がもっと私に会いにきてくれれば、、などと考えるようになっていて、ある日はっとしたんです。

あれ?私まだまだ他人軸で生きてるんだな。と。
誰かに幸せにして欲しい。誰かにこんな言葉をかけてほしい。誰かに私の気持ちを満たして欲しい。
そんな事ばかり考えていて、私は一生自分以外の誰かに幸せにしてほしい、心を満たして欲しいと考える人生なのかな?と、誰かが言った些細な言葉や行動で私自身の価値を決め続けるのかな?私が私自身を幸せにし、満たしてあげるって人生で1番大事なんじゃないかな…と気付き始めました。
旦那さんの目に見える態度や表情、言葉、行動で私自身の気持ちがグラグラと揺れていたのです。

今までの私は、摂食障害になる前もなってからも誰かに褒められたり、誰かに求められたりする事だけで自分の事を肯定することが出来ていました。
自分以外の誰かが幸せそうにしている状況を私自身もそうなれば幸せになれるとも考えていました。
友達の数、ブランド物の服やバックを沢山持っている、痩せて綺麗な体型である、綺麗な顔である、結婚している、など外側だけを見て自分の価値という物を決めていたように思います。(私は決して綺麗な顔でも体型でもなかったのですが、それらを手に入れれば幸せになると価値が上がると思い込んでいた時期がありました。)
スナックで働いていた時は、お客さんに沢山の物を買ってもらっていました。
服や靴やバック、アクセサリー、テレビや車など。
沢山自分に手に入ったら幸せになれると思っていました。
そして、スナックで働いている時もよくお客さん達に、あんたは幸せそうだね。いつも楽しそうだね。など言われていましたが、少しも幸せに思ったことなどありませんでした。
どんなに欲しかった服や靴やバックを手に入れても、どんなに友達が増えても、好きと言ってくれる男性が現れたとしても、心が満たされる事はなかったように思います。
お客さんに服や靴、車など色んな物を買って貰った時も感謝の気持ちなんかありませんでした。
「こうやってプライベートの時間使ってやってるんだから、買ってもらって当然だろ」と心のどこかで思っていました。
でも感謝の気持ちを持てない自分でいるのが嫌で「醜い考えを持ってはいけない。」「傲慢な自分ではいけない。」などの考えもあり、そう思う自分を受け入れられずに無理やり感謝するべき!と私自身に指示をしていました。
感謝は無理矢理するものではないのに。

今考えればそれで満たされないのは当然だったなと思います。
なぜなら私は「他人から見て私は幸せそうか」ばかり考えて行動していたからです。
「私から見て私自身は幸せか?」ではなかったのです。

幸せは自分のものさしで測るものであって、他の人が感じる幸せと自分が感じる幸せは違いますよね。


ずっと他人軸で生きていた私は無口で余計な事は言わなくて人を必要以上に褒める事のない旦那さんに、私はどんどん自信を失っていました。
だけど前向きで明るい良い妻でいたかった私はそんな事を考えて落ち込む自分だと思いたくもなく、そして面倒臭い女だと思われたくもなく、また蓋をすることを選んでいました。

でも、妊娠して仕事をやめて、殆ど家にいる事が多くなり、自分自身の気持ちやこれからどうするべきなのかより自分はどうありたいのかを考える良いきっかけだったのだと思います。

すぐ人に左右される私にとって、芯がしっかりして人に左右されずにブレない旦那さんに出会えた事は私が私を好きになる事ができるとても良い出会いだったのです。


続きます。








生きている実感ができるようになったこと。

私が「摂食障害が治ったな。」と自信を持って思えるようになったのは2年前くらいからです。


それまでは良くなったりまた過食したりを繰り返しながらも着実に過食する回数が減っていきました。

摂食障害がまだ完璧に治る前に妊娠、出産、初めての育児を経験して大変な事だらけで過食が酷くなったりもしました。


でも今は最後過食したのはいつだったかもう覚えていません。


摂食障害の人は生き辛い考え方を持っている人が沢山いると思います。

私がそうでした。

摂食障害が治った今も生き辛い考え方や思い込みがまだまだ沢山あって、なんかもーめんどくさいなあ、って自分に疲れちゃうことがあります。

摂食障害じゃなくても生き辛い考えを持ってる人は沢山いると思います。


例えば、すぐ空気読んじゃうとか笑

例えば、すぐ人の言ってほしい言葉やしてほしいリアクションが分かっちゃって期待に応えてしまうとか笑

例えば相手の表情の変化をすぐ察知して考えてることがなんとなく分かってしまう気がするとか。これはあくまでも思い込みですが。

↑これができる事ってコミュニケーション能力高く見られがちですが行きすぎちゃうととても疲れます。

自分の感情を後回しにして人の感情を優先してしまい後でどっと疲れてしまう事があります。

周りの目を気にして疲れちゃう事もあるし、誰かに言われた些細な一言ですぐ傷付いてしまうこともあります。

亡くなった母を想い泣くことなんて沢山あります。

でも、それは感情がしっかり出るようになったからです。

摂食障害のころは、悲しい、辛い、寂しい、怒り、の感情を見てみないふりをしてしっかり蓋をしていたので、感情が「無」の状態でした。嬉しい、楽しい、面白い、そんな感情さえもありませんでした。

お酒飲んで酔っ払った時だけ感情を出すことが出来ていました。

元々笑い上戸ですぐ感動して泣いてしまう事がある私でしたが、腹を抱えて笑うことなんて全くなくなり、全てが作り笑いでした。

大好きなディズニーランドに行っても、素敵な景色を見ても、友達にサプライズで誕生日パーティーをされた時も、嬉しくてハッピーな姿を作ってあたかも喜んでいる姿を見せていましたが心は完全に「無」でした。

感動するドラマや映画を観たとしても心が動かされる事はありませんでした。

いつも心ここにあらずな感じで、生きている実感なんか無かったように思います。


摂食障害が治った今は自分の感情を敏感に感じとれるようになりました。

摂食障害の「無」だった時よりも寂しい、悲しい、辛いという感情になる事が増えましたし、怒ることも沢山あります。

でも、嬉しい、楽しい、幸せ、に思う感情も沢山たーくさん増えました。

音楽を聴いたり、テレビを見たり、綺麗な景色を見たり、子どもや旦那の些細な行動で深く心を動かされる事も増えました。

「今私は生きている」そんな実感があります。

そして毎日自分に「愛してるよ」と声をかけています。笑


そうできるのって身近にいる旦那さんや子どものお陰だから、今恵まれた環境にいるから、そう思っていました。確かにそれもかなりあると思いますし、とっても感謝しています。

でも1番は、自分のどんな感情も蓋をせずに感じ尽くし認めて許しているからだと今思います。


摂食障害を治している途中で旦那さんと付き合い妊娠し結婚し出産という形だったのですが、まだまだ生き辛い考えの時だったので、今より「満たされる」ことが程遠いものがありました。

嬉しいや楽しいという感情はだいぶ出てきた時だったのですが、負の感情にはどうしても蓋をする癖が出来上がっていて、出すことの恐怖と自分自身を受け入れられない事が沢山ありました。


では、どうやって負の感情に蓋をする癖をやめて、「満たされる」ことができるようになったのか、次の記事で書こうと思います。


「母になった今自分の親に対して思うこと」編はまた別の記事で書きます。笑





一児の母になった私が今自分の親に対して思う事。④

高校を卒業する前日、卒業アルバムが配られました。

みんなに一人一人配られたのになぜか私だけ卒業アルバムが貰えないという事がありました。笑

「え!わたしのは?」と先生に聞いたら

「まだ授業料の振り込みがないからそれに卒業アルバム代も含まれてて君にはまだ配れない」そう言われました。

何ヶ月か授業料を滞納していたようで、

この頃の私はクラスのみんなの前でそう言われたことと授業料を払っていなかった事のショックで落ち込んだことを覚えています。笑


母に電話したら急いでお金を持って学校にきてくれました。急いできてくれて息をハアハアさせながら「ごめんね。寂しい思いさせちゃったね」と言ってくれたのを覚えています。

母が私に対して必死になってくれる姿を初めて見たような気がして、なんだか涙が出ました。

私は元々手がかからない子だったようで、母は病気がちでその後グレてしまった兄に必死に寄り添っていた姿を見ていてヤキモチというか私はいつも後回しなんだなという気持ちがどこかあったからだと思います。


私は末っ子で家族をどこか冷静に見ている自分がいて、ヤンチャな兄に手を焼いている母を見ていたので、私は母にこれ以上負担をかけてはいけないと思い込んでいたようです。

この時は「ヤンチャな兄に手を焼いて怒っていたり疲れていたり落ち込んでいたり、大変な思いをしてる」その部分だけを見ての思い込みでした。


私が母になって思うことは、まだ今は1人の子だけしか育てていないので3人の子を育てた母の気持ちを分かる訳ではないのですが、

もし私が3人子どもがいて上の子の方が手がかかる子で下の子が手がかからなく自己主張が少なかったら、どうしても手がかかる上の子に必死になってしまうと思います。

これは下の子を愛していないというわけではなく、ただ単に下の子が手がかからなくいい子なだけ、下の子は分かってくれていると思ってしまうと思います。


ただでさえ、急にいなくなってしまったり、急に仕事を辞めてきたり、急に暴れたりする旦那と生活して不安定な中、ヤンチャな兄2人と手がかからない私を育てていたら、どうしても手がかからない子は後回しになってしまいますよね。


後回しというか、その言葉が合っているか分からないですがシンプルにただ、手がかからないと思っている子にたいしては安心してしまうというか…笑


それを私は愛されていないと、私の事は見ていないと、心のどこかで思い込んでいたのをずっと蓋をしていました。

母の行動で少しでも違和感を感じたら「愛されていない。私を見てくれない」このことに無意識に結びつけ、愛されていない探しをしていたように思います。


このような思い込みの小さな積み重ねを沢山持っていました。


その時の小さくて大した事ないと思っていることでも、積み重なるとやがて大きなものになります。


大きな不安や寂しさになる前にその都度その感情を言葉にしたり感じ尽くしたりすると、「あ、これは私の思い込みだ。私は後回しにされても愛されてないわけでもないし、価値がない訳ではないんだ。」と気付くことができると思います。

どうしても私が愛されていないとしか感じれない事があったとしても、私自身に価値がなくなるわけではないという事も気付けると思います。

摂食障害になって、治そうと決意し、過去の積み重ねて大きくなってしまった思い込みを少しずつ変換させることができました。

そして、自分の価値は自分で決める事ができることも知りました。

そもそもみんな価値がないなんてある訳ないんです。

価値がない。愛されない。などと決め付けているのは他の誰でもない自分自身でした。


高校を卒業してからの事、母とまた揉めて家出をしたこと、一人暮らしをしたこと、その時のことを次の記事で書いていこうと思います。



花ちゃん

テラスハウスで初めて花ちゃんを見たとき、裏表なくて無邪気な笑顔が可愛いくて、人間らしさがある子なんだろうな、ピンクヘアもメイクも凄く可愛いし、ノリもいいし、友達になれたら楽しいだろうなって思っていました。


まだ若いのに考え方に芯があって周りの人に気をつかえて愛情深い人なんだろうなって印象でした。


なんでこんな一生懸命頑張ってる子が亡くならなければいけないんだろう。


言葉は人を救うこともできるけど暴力にもなる。


何も知らないのに

一部分だけを見て批判する人。

何も知らないのに決めつけないで。

誰も幸せにならない言葉なんて出すものじゃない。


そういう人は自分にも幸せになれない言葉をかけているんだろうね。

だから満たされなくて何も関係ない人まで巻き込もうとするんだろうね。

いつかその言葉はまた自分に返ってくるよ。


テラスハウスで花ちゃんとカイ君のやりとりを見るのが好きでした。

カイ君の言葉に照れてる花ちゃんがとても可愛くて癒されました。

コスチュームのことがあっても心のどこかで2人がまた仲良く戻れることを期待していました。

どちらが悪いとかなんて思ってませんでした。

花ちゃんがキレたことも、人間らしくていいじゃんくらいに思っていたし、

ただただ、2人がまた心から笑い合える日が来ることを願ってました。


私は一年前に母を亡くして、私も身近にいる大切な人も、いついなくなってしまうか分からない危機感に襲われました。

明日があるかなんて誰にも分からない。

大切な人とずっと一緒にいれるかななんてことも誰にも分からない。


そして花ちゃんが亡くなったことを知って悲しさでいっぱいになったけど、私自身、身近にいる大切な人を今まで以上に大切に、自分自身のことも大切に、大事に生きて行こうと改めて考えさせられました。 


花ちゃん、私は花ちゃんをテレビの画面で見ているだけの人間だったけど、あなたの笑顔や優しさや芯のある言葉に深く心を動かされました。ありがとう。


心からご冥福をお祈りします。






一児の母になった私が今自分の親に対して思うこと。①

間違えて前の記事を消してしまったのでまた載せときます😭





私の母は一年前に肺腺癌でこの世を去りました。


今日は私の大っ嫌いで大好きだった(どっちやねん笑)お母さんの話をしようと思います。


私のお母さんは社交的で誰とでも仲良くなれるとってもとっても明るい人でした。

自分の気持ちに正直な人で、すぐ笑うしすぐ泣くしすぐ怒る裏表のない人でした。

裏表がない分小さな子どもの頃の私にデリカシーのないことを普通に言っちゃう親でした笑


お父さんは私が小さい時に精神病になって家で急に暴れ出したりする事が多くなり、団地に住んでいたので近所の人が通報して警察が来る事もありました。

そしてお父さんは仕事をしなくなり、仕事を見つけてはすぐ辞めてを繰り返し、家で寝てることが多くなりました。

私には3歳ずつ離れてるお兄ちゃんが2人いて、お母さんは3人の子を育てる為に朝は新聞配達、日中はパートをしていました。

電気やガスが止まることなんて沢山ありました。

それでもお母さんは明るくて元気でよく泣いてよく怒ってよく笑って、私たち子どものために頑張っていました。


そして私が小学校にあがる頃、お父さんの知り合いが経営してるお弁当屋さんでお母さんが働く事になりました。


それから日に日にお母さんの様子がおかしくなっていきました。

弁当屋さんの店長のパワハラ、給料未払いがどんどん増えて、それでもお父さんの顔があるから中々辞めれず、8年くらいそこで働いていたと思います。

お母さんはイライラすることが多くなり、私に当たるようになりました。

虐待まで行くことはなかったけど、私に対する嫌味やバカにした発言、無視をしてくるなど私が小学校から思春期に入ってる中学2年生まで続きました。

それでも仲のいいときはとても仲良くいれて、会話も沢山あって友達といるよりお母さんといる時の方が楽しかったのを覚えています。

でもお母さんの私に対する八つ当たりはどんどん酷くなりました。

私はアトピーが酷かったので毎日薬やアトピーに効くというサプリメントを飲んでいたのですが、痒くて寝れない日があってもお母さんの機嫌が悪かったりお母さんと喧嘩した日などはそれらを隠されて使えないようにされたり、すぐ家から出てけなど言うようになったりしました。

小学校5年生くらいになると私もお洒落やメイクに興味を持ち始め、その当時流行っていた服をおばあちゃんなどに貰ったお小遣いで買って着ていると、「自分のこと可愛いと思って勘違いしてんの?あんたの太い脚でそんなミニスカート合わないしアトピーで肌汚いし笑 バカじゃないの?」など言われるようになりました。

思春期の私にはムカつく気持ちと平気でそういう言葉を言えちゃうお母さんは私を愛していないんだという寂しい気持ちと不信感でごちゃごちゃになりました。


お母さんは私が小さいときから宗教にも入っていて、私たち兄弟は集会や奉仕活動というものに毎週連れられていました。

その宗教は崇拝している神様以外にお祝い事などしてはいけないという教えがありました。

だから私達兄弟は誕生日やクリスマス、お正月など世の中の当たり前にあるお祝い事はできませんでした。

学校の校歌も学校で習う何かを祝福してる歌も、歌ってはいけませんでした。

学校の行事でできないことも結構あって、例えば節分の日で豆まきをするとき、先生に「私は宗教に入っていて節分ができません」と伝え、みんなが豆まきをしている間、私は椅子に座って見ていました。

(今思えば、みんなに混ざってやった振りをして誤魔化せることもできたかなと思うのですが、小学生の私はみんなの前で自分は宗教に入っていると伝える事が信仰心として教えられていてそれを守らなければ、お母さんに頑張ったことを伝えて褒められたいという思いもあり臨機応変にはできませんでした。だって子どもですもの。笑)

お母さんが入っていた宗教では、崇拝している神様だけを信仰し、自己犠牲を払うことがとてもいいことだと教えられていました。

ダメとされてるものが沢山あり、自分の気持ちを優先させることはできない教えを何年もすりこまれてきました。

将来なりたい夢を持つ事も、

自分を大切にする事も、

私は小学生の時から諦めていたように思います。


だから自分に嘘をついてでもお母さんが喜ぶような言葉を沢山かけていました。

単純にお母さんが怒っていたり、悲しい顔をしているのが見ていて辛かったからです。

自分の気持ちを言っても、

自分のこうしてみたいという行動をしても、

お母さんの意思や、宗教上の教えに反することだったら受け入れて貰えないと思っていました。そしてお母さんが喜ぶ言葉や行動をしてお母さんに認められ、愛されたいと強く思っていました。


後になって思うのは、私は愛されていました。ただ、お母さんの不器用さや、休む暇なく働きつづけてるのに宗教の集まる場所にもいき(「受けるより与えることが幸福」と教えられていて、宗教に入っている人達はとても優しい人達が多かったように思うので、お母さんはこの場所が心の拠り所になっていたのだと思います。)お父さんが急に暴れだして精神状態おかしくなったり、急にお母さんの財布やケータイを勝手に持っていき3ヶ月ほど失踪することなどもあり、お母さんは1番頼りにしたい人も頼れなく、自分一人で3人の子を育てなきゃいけない、頑張らなきゃいけないといっぱいいっぱいだったのだと思います。

私の物分かりのいい性格もあいまって、お母さんの1番側にいる私がただ、当たりやすくなっていたのだなと思います。きっとそんな自分をお母さんは責めて、でもどうしていいか分からない辛さもあったのだなと、母になった今思うことがあります。


そんな家庭で育った私たち兄弟は、とくにお兄ちゃん2人は思春期を期に荒れまくりました。

今まで我慢していたのを発散するかのように外でケンカして補導されることなど沢山ありました。

お兄ちゃん達はそれから宗教に関わることを一切拒否して、自分の道を行くようになりました。

荒れてはいたけど心優しいお兄ちゃん2人はお母さんを助ける為に高校に行かずはたらいて家にお金を入れていました。


そして私が中学二年生の時、お母さんは倒れて救急車で運ばれました。


胃潰瘍が5個もできていました。

完全にストレスからくるものでした。


ここまで書いていて思ったことは

人って寂しかった事や悲しかったこと、気持ちに蓋をしていたことの方が強く思い出として残るんだなと感じました。

楽しかったことや嬉しかったことも沢山あるし、お母さんが私を愛してることを実感したことも今思えば沢山あります。ただ、気持ちに蓋をしていた日々、自分を大切にできなかった経験は強く頭に残り、自分に厳しくしなくてはいけない思い込みは後に摂食障害という形で私が私にSOSとして教えてくれました。



お母さんが入院してからのこと、家族のこと、私が一児の母になってから思うお母さんの気持ちをまた次の記事で書いて行こうと思います。


文章力足りなくて読みずらいかもしれませんがお付き合いお願いします💦







一児の母になった私が今自分の親に対して思うこと③

母は退院して、すぐにお弁当屋さんのパートを辞めて、新しいパートの面接に行きました。


本当はまだまだゆっくり休みたかっただろうけど、ガリガリの体ですぐに動き始めた母を私は凄いと思ったと同時にもっとゆっくり休んでほしいとも思いました。


この時医療保険に入ってなかったらしく、入院費をどうやって払ったのかは分かりませんが、きっとお婆ちゃんか誰かに借りたのだろうと思います。


そして母が退院してすぐに近くのデパートに一緒に買い物に行ったのを覚えています。

お見舞いにきてくれた人達にお礼を買いに行き、お金がないのに私に洋服を買ってくれました。

何かを買ってもらうことなど殆どなかったので凄く嬉しくてとても気に入っていて大切に着ました。

それから今までお手伝いしても褒められることもなかった私ですが、洗濯物を畳んだだけで、皿を洗っただけで、「ありがとう。助かるよ。」って褒めて貰えて嬉しかったのを覚えています。


母はすぐに新しく面接したパート先が受かってまた働くことになりました。

そこの店長や従業員達はみんなとても良い人達で、母が肺腺癌になるまでずっと15年間も働き続けました。

もともと誰とでも気さくに仲良くなれる母はそのパート先で働いてからとても楽しそうでした。


母はもう元の陽気ですぐ笑いすぐ怒りすぐ泣く元気で明るい人に戻りました。

私が思春期だったのもあるし、母も子どもっぽい所があったので喧嘩を沢山しましたが、

もう「家は帰りたくない居心地の悪い場所」ではなくなりました。

母とは親子であり、親友のような関係になれました。


相変わらず父は働いてもすぐ辞めてを繰り返していましたが、母の表情が穏やかでいるだけで私は心が救われていました。

でも父は新聞配達だけはずっと続けていて今もやっています。(新聞配達だけの給料ではとても生活できませんでした)

新聞配達は私達子どもが寝ていた時間で、起きている時間に働いている姿をあまり見なかった私は「お母さんばかり働かせて自分だけ楽して最低だ、こんな人と結婚したお母さんは可愛相」などと心のどこかで決めつけていたと思います。

だけど、今思えば父は精神病で大変な時に自分ができる精一杯のことをしていてくれたんだな。とも感じます。

現に精神が不安定じゃないときは明るくてよく会話もあり、陽気で優しくしてくれました。

暴れたりお兄ちゃんをボコボコに殴ったり、母のこともたまに殴ったりしてる時もあった父だけど、そこだけを見るととても最低だと思うし、どんな理由があったとしても自分の感情で人を殴るのは決してやってはいけないことだと思います。しかし、父はいい所も沢山あって、父が家族を思いやっている姿も沢山ありました。

父の育った環境も少し複雑な家庭で、父は自分が親になってからの家族の守り方や大変なときの自分の気持ちの保ち方がただ、分からなかったのだと思います。


私も一児の子を持つ母になって、「子どもの為にこうしてあげたい。」とか「子どもの笑った顔をずっとみていたい。」とすごく思っていたとしても自分がいっぱいいっぱいで出来ないことも沢山あることが分かりました。

どんなに子どもが可愛くてどんなに愛していても子どもの期待に全て答えられる訳でもないし、子どもの感情に全て向き合える訳でもありませんでした。

まず自分の感情と向き合わないと子供の感情にも向き合えない、穏やかでいられないことの方が多いと感じました。


私は全てを「〜されたから愛されていない。〜と言われたから私は価値がない存在なのだ。普通だったら親は子供に〜するべき。」と決め付けていた事が沢山あったのだなと感じます。

記憶の中で嫌だった事、愛されていないと感じた事、辛かった事、それだけを心いっぱいに支配して決めつけて、それだけを見て苦しんでいたのだなと思いました。


その人の立場にならないと分からないことも沢山あります。

親には親の感じ方があり、子どもには子どもの感じ方があります。

血の繋がった親子だとしても、同じ屋根の下に一緒に生活していたとしても一人一人の考え方は違うんです。

自分の中の普通が他の人にとって普通であるとは限らないし、他の人の普通が自分にとっての普通でもあるとは限りません。


それに、自分が子どもに「こうしてあげるべき」と思うことは本当に子どもが求めてることなのかも分かりません。



母はまだ宗教にも辞めることなく入っていましたが、私に強制的に参加させることはなくなりました。ただ、行かない時はたまに寂しい顔をしたりしたのは覚えています笑


中3の時は私が受験生になったのもあり、冬季講習に行かせてくれたり、その送り迎えもしてくれたりしました。

冬季講習にお金をかけて行ったのにも関わらず私は成績が上がらず、第一志望の高校に落ちました。

合格者発表を見に行った時、お金をかけてくれたのに、協力してもらったのに合格できなくて母に申し訳ない気持ちと、「母をがっかりさせてしまった、すべり止めですでに合格していた市立はお金がかかる、どうしよう…」ってすごく落ち込みました。

でも母は最初私と一緒に落ち込んでいたけど、すぐ切り替えて、「ケータイ買いにいくか!」と明るく私をケータイショップに連れて行ってくれました。

そして「市立の高校で自分が楽しくやれるように頑張りな」って励ましてくれました。


私が母になった今、専業主婦で子どもは保育園の待機児童なのでパートもできなくて、旦那さんの稼ぎだけで生活しています。

旦那さんは人並みに稼いでくれてるので、なんとか生活もできてるし、家も車もあってそれなりに自由な暮らしができてます。

それでも支払いが多いときとか、貯金を崩さないといけない時もあると、不安と焦りが出てきます。私の旦那さんはとても頼りになる人で思いやりと愛情が深い人です。それでも不安になる時はあります。

だからすぐに切り替えて明るくしてくれた母は凄いなと思いました。

何十万もする入学金も高い制服代も教材費も授業料も全て私が卒業するまで払ってくれました。

それなのに私は学校をよくサボり何回も先生に母は呼び出されていました。

でも母は「単位無くなる前にはちゃんと授業出なよ。」とだけ言って私を怒ることはありませんでした。


母がよく言っていて今も印象に残っている言葉があります。

それは「この世で平等なものって時間だとお母さんは思う。その時間をどう過ごすかは一人一人自由だし、やらなきゃいけない事に追われている人も沢山いて気持ちに余裕がないときとか落ち込むことも沢山あると思うけど、どうせなら楽しく時間を過ごしていきたいよね。自分の考え方で楽しくなれる時間が少しでもできるなら、お母さんは楽しく考えたい。暖かい気持ちで時間を過ごしたい。」そう言っていました。

母の生き方を教えて貰っていました。

親だから当たり前じゃないんです。

もし、私が母の立場だったら、ここまでできるか正直分かりません。


ブログを書いていて、私はちゃんと想われていたんだと、改めて気づかされました。


母を可哀想と母は不幸だなどと思っていたのもそれは私の決め付けであり、思い込みでした。


母はしっかり自分の人生を生きていました。



父や母に対してこう思えるようになったのは

摂食障害になって自分の考え方や捉え方を見直すきっかけができたことは大きいなって思います。

摂食障害になったときは絶望的だったし、こうなったのも全部父と母のせいだ。と親のせいにした時もあったけど、誰のせいでもありませんでした。かと言って自分のせいだとも思いませんし、今まであった出来事は全て意味があったのだと思います。

摂食障害にならなければ後にこんなに満たされる考え方をすることなどできなかっただろうなとも思います。

全て誰かのせいや自分のせいにして苦しい考え方をして、それでも気持ちに蓋をして明るくいなければと自分を苦しめていただろうと思います。

蓋を外して一つ一つの感情に寄り添い、受け入れられたからこその今の気持ちです。


まとまりなくて読みづらくて申し訳ないですがまだ続きます。笑



一児の母になった私が今自分の親に対して思うこと。②

私が中2の時母はストレスと過労で倒れ1ヶ月ほど入院しました。


母が入院して、こんなに長く母と離れたのは初めてで、不安と寂しさが入り混じった感情になったのを覚えています。


母は、私たち兄弟が産まれてから初めて入院を機に休める事ができました。

ずっと働き続け、3人の子と精神病持ちの旦那の世話をしながら宗教の集まる場所にも週に3回顔をだし、奉仕活動もして、信仰心などを勉強し、自己犠牲を払うよう自分や子どもたちに支持する、受けるより与える方が幸福だということを教える、そんな生活を何年もよくやっていたなと思います。

この当時、母が私に八つ当たりしたり嫌がらせなどしたのは、私が融通が効かない子だから、母が可愛いと思えるような子じゃないからだとずっと思っていたし、お父さんがしっかりすれば、精神病になんかならなければお母さんはもっとちゃんとした母親だったのにと自分と親を責めていました。


今思うのは、この状況は誰も悪くなかったなというか誰が悪いとかじゃないんだなって思いました。

父が精神病になって働かなくなったのは、小さい頃の私にはなんでそういう状況になったのか全て把握していた訳でもないし、父は父なりに頑張って家族を守ろうとしたけどできなくて頑張りすぎてしまったのだとも思うし、お母さんが私に八つ当たりするようになったのはお母さんは私を愛していない訳ではなく、どうしていいか分からない不器用さや自分の中で本当の気持ちに蓋をし、宗教の教えを守って子ども達にも教えなければという思考もあって、当たりやすい性格だった私に当たってしまったのだと思うし、宗教で勉強していたのもこの時の大変な状況を少しでも変化できれば、少しでも心の拠り所にしたい、などの考えで辿り着いた場所だったのだろうと思います。

まあ、もっと違うやり方あっただろ。ともよく思ってたのですが笑

でも、お母さんはお母さんなりの、お父さんはお父さんなりの考えや苦しみがあったのだろうなと思います。

お父さんもお母さんもきっと「〜するべき」思考で自分自身を苦しめていたのだと思います。

私自身もこのあとに「〜するべき」思考は私を苦しめることになります。


そして入院を機に母はこの時のストレスのひとつであったお弁当屋のパートを辞めることになりました。


入院して、心も体も休めることのできた母は変わっていきました。


きっと入院する前の母は、この何年後に摂食障害になった私と同じく自分の気持ちに蓋をし続け、自分に「〜すべき」思考を自分に押し付けいじめていて、本当の自分を見失なっていました。

母になっても何歳になったとしても人間は不完全なものです。自分の中での完璧を理想を自分や人に押し付けるのは、苦しいものです。

でも入院を機に心と体を休めることができ、ストレスのひとつであったパートを辞める決意をして、少しだけ気持ちにゆとりができたのだと思います。


この時の父はというと、自分の友達が経営しているのもあって、関係が壊れるのを恐れてなのか、母がお弁当屋さんのパートを辞めることを反対しました。


この時私は誰も幸せになれない父の行動が許せず、母に「お願いだから辞めてほしい」と泣きながら訴えました。


この時入院して休ませることができた心と体の母は、自分の為の判断ができ、父に何を言われてもお弁当屋さんのパートを辞める決断をしてくれました。


穏やかな表情に戻ってきた母を見て私も安心したのを覚えています。




母親になったら自然と子どものことを第一に大事に考えられるものだと若いころの私は思っていたし、そうでなければいけないとも思っていました。

しかし、母になった今、自分で自分を満たし大事にしない限り、子どもにも優しくすることは難しいと知りました。

子どもは親が思ってる以上に親のことを見ていますよね。

お母さんには幸せに笑っていてほしい。

それだけで子どもは自分の存在を肯定することだってできます。

笑うだけじゃなく、泣いたり怒ったりしても、今の感情にしっかり向き合って、ためこまないようにすれば、自然と表情も穏やかになります。

ここで大事なのは負の感情ともしっかり向き合うこと。

母になったからといっても、大人だとしても完璧じゃない自分をまず受け入れて、自分を大切にしてる姿を子どもにも見せてあげることの方がハッピーなのだなと感じます。


いつも笑顔でいることなんてしなくていい。

泣いたり怒ったり、そんな人間らしい自分をこれからも愛してあげたいです。